千尋を目指す思索の渦

どーも。先哲の思想に触れるのが好きな学生です。

PSYCHO-PASS 3 FIRST INSPECTOR の感想

先日、PSYCHO-PASS 3の劇場版である FIRST INSOECTOR を観に行ってきました。この記事は作品の感想をトピックにして書いていこうと思います。 結論から言うと、見終わっても全く以ってスッキリしません。むしろ、二時間ちょっと期待させておいて、種明かしはこれっぽっちなのかい……と私は思ってしまいました。シナリオを追いながら(個人的に印象の強かったシーンメインにはなりますが)、随時感想を述べていこうと思います。劇場まで見に行くのは怖いという人は、Amazon Prime Videoで公開されているので、是非そちらをご覧になってみてください。

公安局ビルの占拠

ストーリーは、PSYCHO-PASS 3 第8話の直後から始まります。というのは、六合塚さんが梓澤の仕組んだ罠に嵌まって意識不明の重体に陥ってしまったところです。「さらば、伝説の女デカ……」といってテレビアニメ版では幕引きとなりましたが、その後梓澤は六合塚さんのIDカードを盗み取り、公安局ビルへと平然と侵入します。そして、ドローンを駆使してビルのセキュリティ中枢を乗っ取り、公安局の完全な掌握に成功します。PVでもシーンカットが出ていましたが、梓澤の「では、ゲームスタートだっ!」という台詞を皮切りに、公安局ビルがロックダウンされたり、公安局内に収容されていた潜在犯たち(事情聴取のため?)が解き放たれたりで、てんやわんやな事態になります。

そうして外部から完全に孤立した公安局ビルでは、一般職員は階下から徐々に浸潤してくる毒ガスにおびえながらの軟禁状態。三係は出払っており、二係は暴徒と化した潜在犯やパスファインダーたちによって殲滅されてしまうという有様。

夜半を狙っての襲撃だったため、一係に関しては監視官不在で執行官のみの状態でしたが、さすがは経験豊富なだけあって、難を切り抜けていきます。雛河と廿六木は霜月課長と合流しドミネーターの確保に向かい、入江と如月は公安局ビルの中腹のテラスに締め出されており、外伝いに最上階へ向かうことを決めます。

ここで梓澤のひとつの狙いであった小宮都知事は、公安局に匿われていたためこのロックダウンの被害に遭っており、唐之杜分析官と行動を共にすることになります。コントロールセンターに向かう道中で、彼女が「ダンゴムシ」と呼ばれる強化ドローンを見事に捌いて魅せるシーンはなかなかの迫力です。

 

選択肢を与える

 慎導監視官は熟睡していたところを梓澤に捕らえられ、身動きの出来ないようにされてしまいます。

そこで梓澤は、自身のこれまでの行いのすべてが、灼の父である篤志さんのやりかたの模倣に過ぎないことを打ち明けます。それを聞いて、当然受け入れられない灼は強く反駁します。父はそんな他人を利用するような人ではなく、立派な人間であった、と。梓澤はそんな灼の様子に心底呆れた顔をします。

灼は、都知事を本当は殺したいわけではないのではないか?と梓澤に問いかけます。それに少し意表を突かれたようでありながら、梓澤は肯定します。自分は、彼女を殺したいわけではない。彼女の生死には一切関心は無い。ただ彼女に分岐点を与えているだけだ、と。正しい選択をするも、間違えるのも彼女自身の選択だというわけです。

これを聞いて、私がピンと来たのは「SAW」という映画です。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、この映画においても自身が選択する(Make your choice...)ことに焦点が当てられています。この点で、梓澤はジグソウに重なる所があるのではないか、と分析してみました。

まず、今回彼がターゲットにした、小宮カリナ。彼女は、自身の綺麗な色相を掲げ、健全な精神のもとに開国政策を積極的に行っていくことを宣言し、当選を果たします。ですが、党の方針だからという理由で、彼女の秘書を勤めあげてきた移民を解雇したり、開国政策とは裏腹な行動を取ったりしていました。そんな彼女に、梓澤は一貫して、辞任宣言を出すように要求します。

ジグソウがターゲットにするのは、他人を踏み台にして自分のみが成功すれば良いと思っているような利己主義の塊であり、彼の「ゲーム」にはそういった者を懲罰するという意味合いがありました。

梓澤自身も一連のインシデントを「ゲーム」と称している節が見られ(これは̪シビュラシステムからもそう断言されます)、冲方さんがあの作品を意識していても不思議はない、という感じです。

彼は、「真にシビュラ的かどうか」を見定めるための指標として選択肢を与えているのだ、と灼に語り聞かせます。この点で、槙島とは完全に異なる思想なのですが、共通点もあると思います。

槙島は、現体制(シビュラシステム)に不満のある人間に興味を持ち、彼らが自分の頭で考えて身の振り方を選択するかを観察していました。結局利己的な復讐心や物足りなさを満足させるような選択しかしなかった場合には関心を失い、見放しています。

槙島自身は免罪体質者であるため、いわばシビュラシステムから見放され主体的に選択できる自由がありました。それと同時に、職業適性から色相に至るまであらゆるものをシビュラに委託している体制の人間に対しては、疎外感を感じていました。だからこそ槙島は、シビュラによって人間の主体性というものが消え失せ、個人としての価値が減衰している社会を奇妙に思ったのでしょう。

 梓澤と槙島の両者は、対象が自分で主体的に選び取ること–他人には委譲できない選択肢を重視しました。ここには共通点があります。一方で両者の決定的な違いは、対象のその選択から何を読み取っていたか、ということだと私は考えました。

梓澤に関しては、シビュラを神聖視しており、自身もその一部になりたいのだと、シナリオの最期に彼の口から独白されます。

 

新型ドミネーター登場

霜月課長一行はなんとかドミネーター保管庫に辿り着きますが、既にそこは荒らされた後でドミネーターは全て破壊されていました。最悪なことには、彼女らがそこに辿り着くこと自体計算され罠が張られていました。

万事休す、という状況で霜月は、局長からゴーサインが出なかったためにお蔵入りになったという試作のドミネーターが保管されていることを思い出します。そこで登場するのが、「携帯型心理診断マルチ鎮圧執行システム ドミネーターSG型プロトタイプ」という、要はドミネーターのショットガンバージョンです。複数の潜在犯を一度に執行できる代わりにクーリングダウンが必要という代物で、恐らくはパラライザーモードの使用だけでもバッテリー切れが起きます。是非ともエリミネーターモードを披露して頂きたかったのですが、残念ながら劇中では拝めませんでした。尚、デコンポーザーモードは搭載されていないようです。

 

一方で、入江・如月の二人は何とかビルの最上階に辿り着いてみると、外務省のヘリがターレットに狙撃されている光景を目撃します。外務省のヘリに同乗していた炯の機転でなんとかターレットを排除し、二人は狡噛、炯と合流します。

その頃、ダンゴムシのおかげで拘束されていた灼を救出し、一部通信システムも取り返していた志恩が通信を繋ぎ、一係はビルのセキュリティのコントロールセンターで落ち合う流れになります。

分析官としての苦悩

セキュリティコントロールルームに辿り着いた唐之杜とカリナ、そして炯でしたが、炯が周囲の警戒のために外に出た隙にコントロールルームのドアがロックされ、志恩さんとカリナは内側に閉じ込められてしまいます。そして梓澤から通信が入り、コンソールに触れれば、三分で毒ガスを部屋に流し込むと脅されます。

 志恩さんはそれを聞いて、分析官としての意地を見せつけます。刻一刻と減っていくタイマーの時間を横目に、志恩さんは分析官として安全な場所から事件解決に臨んでいたことへの負い目をカリナに語ります。志恩さんは色相が回復の兆しを見せていましたが、社会に復帰することに大きな不安を抱いていました。それに加えて、こうした現場に出ず常に後方支援に留まっていた自身の在り方への閉塞的な感情。こうしたわだかまりへの対処の糸口を、この状況に見出したのかもしれません。

あるいは、自分に言い聞かせるための独り言だったのかもしれませんが、こうして彼女の口から語られた、ということに私は心動かされました。毒ガスが吹き込み身の危険が迫っても最後まで自身の職務を全うし切ったその姿勢は、立派なデカの一員だったと思います。

最後、六合塚さんと会話しているシーンがあるのですが、更生した人間として社会復帰することの苦労あれこれを冗談めかして、二人で談笑している様子が描かれていたのもグッときました。

 

梓澤の願い

こうした志恩さんの献身でセキュリティをある程度回復させた一係は、徐々に梓澤を追い詰めていきます。

灼は、梓澤が地下駐車場から逃げ出そうとしている所で追いつきます。そして、シビュラシステムの真実を教える、と梓澤と共に厚生省ノナタワーを目指します。

そして、あの多くの人にトラウマを植え付けたあの部屋に足を踏み入れる二人。

梓澤は、シビュラの一員になりたい、と願い出ます。今までの自分の行いはシビュラの神託に劣らないとして、自身にその資格がある、と。ですが、シビュラシステムは梓澤はただゲームに興じているだけの、「犯罪者」でもなければ「狂人」でもない、ただの凡庸な市民に過ぎないと評価されます。

挙句の果てには、エリミネーターで処分されかけましたが、灼はあくまでトリガーを引くのは自分だとして断固拒否し、犯罪係数に基づく正当な裁きを下しました。

 

13インスペクターとしての顔

 ここまで触れてこなかった炯はと言えば、ビフロストから脅しをかけられたり、外務省の須郷さんに尾行されたり、とのっけから苦労が絶えませんでした。道中パスファインダーからの襲撃を受けるのですが、須郷さんが安定の自己献身ムード全開でほっこりしました。

テレビアニメでは妻を施設から出す代わりに法斑の身辺警護という取引でコングレスマンの配下になった炯。劇場版でも、所々で法斑や代銀と端末でやり取りする様子が描かれ、もしかしたら闇落ちするのではないか、とも思いましたが、結局はザイルパートナーである灼を信じ切りました。

最後には、お互いに秘密を打ち明ける約束をしていましたし、そこまで信頼関係を置ける距離感に戻ったのを見ることが出来た、というのは私の中でかなり大きいです。

 

ラウンドロビン、ビフロストの正体 

今作の見せ場としてやはり大きな立ち位置を占めるのは、ラウンドロビン、ひいてはビフロストという組織の正体でした。劇場版が公開されるという発表があって、ここで一気にネタばらしにいくのだろうなという観客の期待に応える展開になりました。

その気になるビフロストの正体は、シビュラ導入の際のデバッカー集団なのだ、と梓澤の口から明かされます。

この組織はラウンドロビンと呼ばれるデバッグシステムを用いてシビュラの盲点を探り出し、シビュラシステムをより完全なものへと昇華していくことを本来の目的としていたことは想像に難くないと思いますがそれと同時に、将来自分たちの人生を束縛することになるシステムに、自分たちだけが得するバグだけ残しておこうというのも当然の心理であるように思われます。ということで、そのデバッガー集団は、リレーションという形で自身の利益を拡充することに専念するようになっていったのでした。シビュラシステムに対するデバッガーですから、当然定期的に犯罪を発生させ、その対応を検討するというのは、ビフロストという組織を存続させるうえで必要不可欠なものでした。日に日に盲点を潰していくシステムに対して、リレーションを行い新たな盲点を探し出し、それを利用する。この繰り返しで、ビフロストは存続していたのでした。

驚くことに、ラウンドロビンは厚生省の建物の中に同設されていたことが分かるのですが、正体を知ってしまえばどうということはない、ごくごく自然な配置ですね。

公安局ビルロックダウンが解消されたのち、ドミネーターを携行した霜月は細呂木局長と共にラウンドロビンのもとを訪れます。そこでは、代銀に勝利した法斑が、シビュラシステムをコングレスマンに指名し、リレーションを開始させようとしているところでした。

すると突然霜月の持つドミネーターを介してシビュラがラウンドロビンに語りかけます。ラウンドロビンの助けが無くてももう完全にやっていけるという趣旨の話です。

ところで、シビュラのマークを皆さんはご存知ですか?ドミネーターにも刻印されていますが、画像のような感じですね。

Psycho Pass Sibyl System UltraHD Wallpaper for Wide 16:10 Widescreen WHXGA WQXGA WUXGA WXGA ;

それと、以下のラウンドロビンのマークがピッタリと一致する演出が施されます。

画像

 

そうすることで、パノプティコンを彷彿とさせるラウンドロビンを、シビュラシステムが取り込む形で、ビフロストという組織は消滅しました。暗喩としてもなかなかの鋭さで、思わず唸ってしまいました。

その後、法斑は公安局の局長に就任することになります。美佳ちゃんのあんぐり顔。そして、常守が彼女の補佐に任命されたことを聞いてげんなりするといった表情の豊かさも良かったです。

法斑は元からビフロストという組織の消滅を望んでいたようで、これによって、彼がリレーション中に公安局に妙に肩入れしたベットを行っていたりした理由が判明したことになります。

法斑は、「我々が留保してきた問題を解決してくれるか?」という細呂木もといシビュラシステムの頼みを快諾しました。この留保している問題というのは、間違いなく常守朱に関する件なのですが、その一件が具体的に何であるか、常守が口を開こうとしたシーンで幕が閉じてしまうので、これに関しては残念ながら私の考えを述べることしか出来ません。

 

法という正義

経緯はどうあれ、常守は禾生局長殺害の件で逮捕されているであろうことは察しがついていることと思います。そして彼女が、シビュラシステム下では失われてしまった過去の産物–法の裁きを待ち望んでいることも。

今作のラストでシビュラは、自らが社会をコントロールする手法から、誰かに委ねるという手法を取ることを選びました。法斑の出自は依然として不明(彼の一族がラウンドロビン創設に深く関わっていたことは度々劇中でも仄めかされています)ですが、シビュラにそこまで期待されているということはなかなか腕の立つ人物であることには相違ないのでしょう。

 法治主義」というものが必ずしも理想の社会を形成するわけではありません。法という大義名分のもとに、ベースが全く平等でないことでさえ平然と是であると認識させてしまえるのですから、その影響力は絶大です。

朱ちゃんは、「法が人を守るんじゃない。人が法を守るんです」という言葉を残しましたが、これにはそもそもその法が公正なものである、という前提が隠されており、その点で彼女のスタンスは非常に足元が脆弱なものになっています。

法斑は、そういったことも踏まえて、再び法というものを再構築しようと考えているのであれば、彼が公安局局長に就任したのは不思議ではありません。公安局は、まさにそうした法を後ろ盾に正義を執行する組織なのですから。

シビュラがそのトップに君臨した間は、犯罪係数という数値のみで正義の執行を行ってきました。ですが、もし健全な法治主義を望むのであれば、そうした正義執行の組織のリーダーは、誰よりも法に対する理解が深い者でなくてはならないのです。

朱ちゃんや法斑がこれからどう動くのか、そこがこれからの注目ポイントであることは間違いないですね!

 

 演出に関して

グラフィックに関しては、安定の神クオリティでした。細部までこだわっているのが、OPでの幾何学模様から、EDでの雨が水たまりに降り注ぐ描写に至るまで、始終伝わってきました。音響に関しては、少し違和感を感じる部分もありましたが、臨場感を出すうえでは申し分なかったです。

 

書いていてひとつ思ったのが、登場人物たちが分断され、バラバラに動くためにその動向を追うのがかなり難しかったという点ですね。まぁ、デスストランディング……が起こってしまったわけですから仕方ないと言えば仕方ないですが、ザイルパートナー同士で共闘するとかそういう演出が絶無でした。また、PSYCHO-PASSシリーズの代名詞ともいえるドミネーターで執行する場面が数えるほどしかなかったです。こういった点は見ていて少し盛り上がりに欠けるかな、と思いました。

 

ここは評価は割れると思いますが、三期のメッセージ性は、個人的には高かったと思います(劇場版はラストの都知事の演説だけ)。

日本は深刻な人口の高齢化を迎えており、将来的な労働人口の減少が不安視されています。そのため、海外から労働力を受け入れようという意見も出ており、それが意味することは、日本に外国人が大勢移住してくるということです。そういったことで治安維持の面での不安がありますし、そもそも日本は島国というかなり閉鎖的な環境に置かれているわけですから、そもそもなかば鎖国状態にあるわけです。そんな国がいきなり外国から移民やらなんやらを受け入れるとなったら恐怖心が大部分を占めることになるでしょう。

これについては三期の中で移民反対運動という極めて分かり易い立ち位置が擁立されていましたが、これを見て皆さんはどう思いましたか。もしそういった運動に強く共感したのだとしたら、あなたは現在もいまだに世界各地に蔓延る(人種)差別主義者と一緒です。今いる人種差別主義者は差別対象者を卑下している色が強いです。勝手に彼らが自分たちよりも劣っているなどという偏見を持った結果です。これはこれで、作中の潜在犯に対する差別的な挙措であったりに見られるのですが、移民に対する差別というのは、これもまた偏見が根幹にあります。

偏見は、その相手との対話(コミュニケーション)の一切を遮断している状態です。人間はコミュニケーションの動物です。それもかなり高度なレベルにあり、それを保証するのが「感情」です。そして、人間はそのコミュニケーションという媒体を通じて主客を選り分けているのです。ですがこの媒体をそもそも介さない、つまり偏見で遮断された対象はただそこにあるだけの「もの」です。存在にすらなれていないのです。そうして非常に形而上学的な分類を施された「移民」というものには、警戒心、そこから排他的な思想が現れます。極めて異質なものに対して強い警戒心を抱くのは生き物の本能です。ですが、先程も書いたように人間には「感情」というものがあります。相手の立場を考えるという高度な思考実験を行えるキャパシティが、誰しもに備わっているのです。警戒心でそのキャパシティを封じてしまうということだけは、避けたいところだと思いませんか。相手だって自分と同じである、言葉を尽くせば真意を汲み取ってくれる人間なのです。そして、偏見で凝り固まったカテゴライズには必ず間違いがあります。その間違いに囚われる、ということも避けねばなりません。

努々、こうした態度は忘れないようにしたいですね。

 

 

 

「時間」から読み解く学問体系

こんにちは、ぱなそです。

本記事をいつ投稿するかは未定ですが、記事を書いている今日は春分の日です。月日が経つのは早いもので、受験生だった身からすると国公立大学の入試が終了してはや一ヶ月。軽く焦りを覚えています。

 

「時間」は人間を隷属させる概念だ、という話を聞くことがあります。

私たちの日常の活動は時間に大いに制約を受けていますし、また裏を返せば、時間なしでは成り立たないことが多々あるわけですから、言っていることに正当性がない訳ではないと思います。

ですが、「隷属」などとインパクトの強い言葉を使われると妙に抵抗を感じるのも事実です。人によって意見が分かれるのは、この意味で必然だと思います。実際、時間が決められているからこそ、タスクが効率よくこなせるんだ、という人がいて、それと同時に時間が気になってしまって捗らない、という人が存在します。或いは、横文字でパンクチュアルな人だ、とか、時間にルーズな人だ、とかその人の人となりを表す指標にもされてしまうくらいですから、「時間」と私たち現代人の繋がりの根は相当深いように感じられます。

 

時間は存在しないっ!?

そんな「時間」ですが、先日私は、書店に足を運んだ際に面白い本を見かけました。昨年出たもので「時間は存在しない」というタイトルです。なんとも蠱惑的なタイトルの本ですね。なんとなく察しはつきますが、冒頭からぶっ飛ばしてきます。

私たちが認識している意味での「時間」というものは存在しない、と著者は言います。

先ずは、時間の流れ方。

これは一様に決まっている、と多くの人が直感的に考えるでしょう。時計は寸分の狂いも無く同じ時刻を指し示すし、だからこそ待ち合わせ時刻を決めたりするのです。

で す が、実際の時の流れ方は、観測する場所によって異なるというのです。この話の説明のために、「なぜ物が落ちるのか?」という身近な物理現象でさえ「時間」が関わっている、という話が挿入されます。

物には、それが存在する「位置」という情報がありますよね。その高さ(位置ポテンシャル)によって、時間の流れはその緩急を変化させています(僅かな差ではありますが)。それ故、物が高い所から低い所へと落ちていくという現象は、時間の流れが速い所から遅い所へと寄って行くという現象に読み替えられるのです。

これは、今までにはなかった斬新な視点だと、読んでいて思いました。おそらく、多くの方が共感してくださるのではないでしょうか。

 

複雑系でシステムを探る

最近の自然科学系の学問の流行りとして、複合、統合的な研究が進められているケースが多いような気がします。無論今までの「物理学」や「化学」や「生物学」は、標識するための便宜的な呼称だったと言われてしまえばそれまでですが、私個人としては、それらはひとつの分野に絞って深めるという色合いが強い印象を受けました。もしかしたら学生であるがために「教科」という形で分類して勉強してきたからこその印象なのかもしれませんが……

が、しかし、あながち間違っていない、という気もしています。

突然ですが、皆さんは「複雑系」という言葉を耳にしたことはありますか。これは、種々の学問分野を統合して、今ある課題に立ち向かうという考え方です。カッコイイ言い方をすれば、「既存の学問分野を越境する」ということです。

私自身、受験時代に読んだ評論で度々このことに言及しているものを見かけたのですが、それらが90年代に既に声を大にして唱えられていたかというとそんなことはありません。

昨年度、某大学入学式の祝辞にて登壇された方が述べられていましたが、「学問にもベンチャーがあります。衰退していく学問に対して、あたらしく勃興していく学問があります。(小略)時代の変化がそれを求めた」のです。そしてこれの裏を返せば、私が先程述べた従来の学問体系の印象の根拠たりえることは明らかです。

 

近代になって、量子論という非常に面白い考え方が勃興してきたことは皆さんご存知だと思います。化学では「電子って実は波と粒子の二つの性質を持っている」なんて聞きますよね。

量子論の考え方は、必ずしも着目する視点が一つでなくともよいというところに斬新さがあります(勿論、魅力はこれだけではありませんが、今回はここをプッシュしています)。

先程の「時間」とこの話は関連性が稀薄だと思われる方もおられるやもしれませんが、安心してしてください。きちんと、繋がっています。というのも、「時間」の流れ方を、この「複数の視点」というロジックに結び付けられる、というのが今回私がこの記事を書く上でひとつ、主軸に据えようと思っていたトピックですので。(厳密に言えば両者の「複数の視点」の意味合いは違いますが、一つの見方に固執しない、という同類項で括り出してみたい、という趣旨です。)

初心者目線からしてもその考え方の斬新さが分かるのです。量子論の考え方に触れる良いきっかけになりえますし、少し見知っている人でも更に学びを深める上で興味深い題材になるというのは、なんとも魅力的だと思います。

また、これからの時代を生きていくうえでどのような視点を持って学問に臨めばいいのか、という問いに答えを与えてくれるようにも感じました。余談ですが、コンピュータには、ここから派生する「ゆらぎ」が使われています。セキュリティでこれを使うとハックの難易度が跳ね上がるというのもどこかで読んだ記憶があります。–閑話休題

 

自然を観ずる視野が要求するもの

「複数の視点から未知の自然現象を解析する」ことの強みは、極端な表現をすれば、「偏見に囚われることが少ない」という点にあるでしょう。

私自身の経験からしても、「なぜそうなるのか?」を考える際に、ひとつの科目に絞った問題として考えるとまったくもって理解できない項目がありました。そういう時には、視野広く複数の視点から観ずることで途端に理解できた、ということが多々ありました。そして初めに理解できなかった点が何であったのかを洗ってみると、大概はその科目ではあまりプッシュされていない概念の話でした。

自然を解析する、などとつい先程偉そうに書きましたが、その解析の手法は人為的に創作された虚構に過ぎません。言い方を変えれば、「神秘的現象を、俗物の理論体系に当てはめる」ということです。「体系」というのは、段階を踏む毎に拡がる知識のネットワーク、というイメージが分かり易いでしょうか。

神秘的現象というものはただそこにあるだけです。それ以上でもそれ以下でもない。そこにストーリーを組み込んで意味付けするのは、自然科学と称される統合型学問の仕事です。そう言われると、どこか一方的な決めつけの感がしてきませんか。ここに、現代社会において要求されている学問体系が浮き彫りになっているのです。

無論今まで積み上げてきた学問体系が無意味なものであり、無に帰すべきだ、などというつもりはありません。むしろその逆で、今までに培ってきたその体系の上に更に拡がる体系を作る、というのが正しい構図であります。先程のネットワークの例えに重ねると、よりヴィジョンが見え易くなるやもしれません。

より拡く包括的な理論体系を構築するうえで要求されるのは、広範な視野です。自然現象はただそこにあるだけですが、それを私たちが読み解くには複数のロジックの重ね合わせが必要になるでしょう。ですから、既存の分野を横断できるだけの視野がなくては、極力薄いフィルター越しの自然を見ることができないのです。

 

最後になりますが、私は「自然現象」という言葉に「神秘的」という修飾をかけました。その意図は、もう皆さんには伝わっていますよね?

 

ではまた、次の記事でお会いしましょう。さようなら!

気になること、思ったことなどありましたら是非コメントしてください!

自己紹介と記事のトピックについて

初めましての方は初めまして。 ぱなそ と申します。
私個人ブログというものには手を付けた経験が皆無で、今回初めて開設するにつけてこの「Hatena Blog」さんを選びました。正直どのブログサイトが肌に合っているのか全く分からない状態で選んだサイトなので、使いにくさを感じるなどの不都合が生じた際には、このブログは閉鎖して別のサイトの方で新規開設するかもしれません。要は、今回のこのブログ開設はあくまで私のブログ人生のスタートダッシュ/駆け出し的な色合いがかなり強めなので、それほど立たぬうちに更新が途絶えたとしても不思議はないということです……(最初から何を言ってるんだ、という感じですが( ´∀` ))
簡単に前置きしたところで、今回のトピックについて書いていくことにしますね!

〈Topic.1〉私の自己紹介
〈Topic.2〉私がこのブログで執筆しようと思っている記事のトピックについて
〈Topic.3〉私が執筆の際に気を付けようと思っていること

今回は、初回ということもあるので、上記三点のトピックに触れようと思います。

 

〈Topic.1〉私の自己紹介

What's your name?

> 先程も名乗らせていただきました(ハンドルネームではありますが……)が、 ぱなそ と申します。この名前の由来は、物語シリーズという作品がありまして、その中の某ドーナツ好きの口癖から取らせていただきました。「ぱないのっ!」 

How old are you?

>年齢不詳と言いたいところですが、今年で19になります。本来ならば大学一年生と名乗りたいのですが、あいにくまだ大学生の称号は得ておりません……察してください(;^ω^)

Why are you so in to Philosophy?

>高校生の頃に「倫理」という科目を履修したのですが、そのときに知識が自分の中にすっと入ってきて純粋に面白いな、と思って、いわゆる哲学を齧ってみようと思って今に至ります。受験科目で使った関係で思想全般に関して雑駁な知識は持ち合わせていますが、特に興味を持っているのは実存主義ポスト構造主義のあたりです。興味のあるところをかいつまんで調べたりしているので、話が偏ってしまう記事も多々あることとは思いますが、その辺りは大目に見て頂けると幸いです。

 

〈Topic.2〉私がこのブログで執筆しようと思っている記事のトピックについて

これは個人の価値観なのですが、 私は、なぜ?を追究することに非常に大きな意味があると思っています。ただ目の前にある現象を受け入れるのではなく、その原理を解明していくーこれは自然科学の分野では日常茶飯事のプロセスです。そしてこれは、知的好奇心をとても掻き立ててくれるのだということを、私は今までの経験から学びました。なぜ?と問いを発して考えることが日常生活の中で多々ありますので、そこで自分なりに得た結論をそのプロセスを交えながら、この場に書き連ねていこうと考えています。ジャンルは特に定めていません。ブログという特性を活かして、どんな話題であれ、それらを幅広く受容し、そしてそこで触れられている論点から出発し、自分なりの人生観、価値観を重ね合わせることで、自分なりの結論を出していこうと思っています。ですから、肌に合わないと感じられる方もいらっしゃるでしょう。そういう方はもちろん、ブラウザバックして頂いて結構です。ですが、端から否定するのではなく、私の挙げた考え方に触れた上で異議を唱えて頂くのは大歓迎です。その場合には、コメント欄にそれらを書き込み、共有して頂けると幸いです。

〈Topic.3〉私が執筆の際に気を付けようと思っていること

突然ですが私は、日本語はとても綺麗な言葉だと、日々日本語で文章を書いたりするなかで思っています。そんな美しい言語を美しく使おうと、極力正しい日本語の使い方を意識して文章を書いているので、一般のブログに見られるようないわゆる話し言葉的な書き方ではなく、硬派な書き口になってしまいます。冒頭で何度か顔文字を使ったり、()のなかに私の心の声を吹き込んだりしましたが、あれは堅苦しい文体に少しでも肩の力を抜いてもらおうという心づもりでした。どうでしょうか、正直あまり効果はないような気もしますが……この点に関しては、仕方の無いことなので、目を瞑ってくださると助かります。

読者の皆様には、もしも文法的、語義的誤謬を発見されましたら、お知らせ頂けると幸いです。

 

長くなってしまいましたが、今回はこれまでにします。いわばガイダンスのようなポジションの今回の記事はとりあえず書きたいことを書き終えたので、次回からは早速、トピック中心の記事を投稿していきたいと思います。

宜しければ、また読みにきていただけると嬉しいです! では、また!