千尋を目指す思索の渦

どーも。先哲の思想に触れるのが好きな学生です。

「時間」から読み解く学問体系

こんにちは、ぱなそです。

本記事をいつ投稿するかは未定ですが、記事を書いている今日は春分の日です。月日が経つのは早いもので、受験生だった身からすると国公立大学の入試が終了してはや一ヶ月。軽く焦りを覚えています。

 

「時間」は人間を隷属させる概念だ、という話を聞くことがあります。

私たちの日常の活動は時間に大いに制約を受けていますし、また裏を返せば、時間なしでは成り立たないことが多々あるわけですから、言っていることに正当性がない訳ではないと思います。

ですが、「隷属」などとインパクトの強い言葉を使われると妙に抵抗を感じるのも事実です。人によって意見が分かれるのは、この意味で必然だと思います。実際、時間が決められているからこそ、タスクが効率よくこなせるんだ、という人がいて、それと同時に時間が気になってしまって捗らない、という人が存在します。或いは、横文字でパンクチュアルな人だ、とか、時間にルーズな人だ、とかその人の人となりを表す指標にもされてしまうくらいですから、「時間」と私たち現代人の繋がりの根は相当深いように感じられます。

 

時間は存在しないっ!?

そんな「時間」ですが、先日私は、書店に足を運んだ際に面白い本を見かけました。昨年出たもので「時間は存在しない」というタイトルです。なんとも蠱惑的なタイトルの本ですね。なんとなく察しはつきますが、冒頭からぶっ飛ばしてきます。

私たちが認識している意味での「時間」というものは存在しない、と著者は言います。

先ずは、時間の流れ方。

これは一様に決まっている、と多くの人が直感的に考えるでしょう。時計は寸分の狂いも無く同じ時刻を指し示すし、だからこそ待ち合わせ時刻を決めたりするのです。

で す が、実際の時の流れ方は、観測する場所によって異なるというのです。この話の説明のために、「なぜ物が落ちるのか?」という身近な物理現象でさえ「時間」が関わっている、という話が挿入されます。

物には、それが存在する「位置」という情報がありますよね。その高さ(位置ポテンシャル)によって、時間の流れはその緩急を変化させています(僅かな差ではありますが)。それ故、物が高い所から低い所へと落ちていくという現象は、時間の流れが速い所から遅い所へと寄って行くという現象に読み替えられるのです。

これは、今までにはなかった斬新な視点だと、読んでいて思いました。おそらく、多くの方が共感してくださるのではないでしょうか。

 

複雑系でシステムを探る

最近の自然科学系の学問の流行りとして、複合、統合的な研究が進められているケースが多いような気がします。無論今までの「物理学」や「化学」や「生物学」は、標識するための便宜的な呼称だったと言われてしまえばそれまでですが、私個人としては、それらはひとつの分野に絞って深めるという色合いが強い印象を受けました。もしかしたら学生であるがために「教科」という形で分類して勉強してきたからこその印象なのかもしれませんが……

が、しかし、あながち間違っていない、という気もしています。

突然ですが、皆さんは「複雑系」という言葉を耳にしたことはありますか。これは、種々の学問分野を統合して、今ある課題に立ち向かうという考え方です。カッコイイ言い方をすれば、「既存の学問分野を越境する」ということです。

私自身、受験時代に読んだ評論で度々このことに言及しているものを見かけたのですが、それらが90年代に既に声を大にして唱えられていたかというとそんなことはありません。

昨年度、某大学入学式の祝辞にて登壇された方が述べられていましたが、「学問にもベンチャーがあります。衰退していく学問に対して、あたらしく勃興していく学問があります。(小略)時代の変化がそれを求めた」のです。そしてこれの裏を返せば、私が先程述べた従来の学問体系の印象の根拠たりえることは明らかです。

 

近代になって、量子論という非常に面白い考え方が勃興してきたことは皆さんご存知だと思います。化学では「電子って実は波と粒子の二つの性質を持っている」なんて聞きますよね。

量子論の考え方は、必ずしも着目する視点が一つでなくともよいというところに斬新さがあります(勿論、魅力はこれだけではありませんが、今回はここをプッシュしています)。

先程の「時間」とこの話は関連性が稀薄だと思われる方もおられるやもしれませんが、安心してしてください。きちんと、繋がっています。というのも、「時間」の流れ方を、この「複数の視点」というロジックに結び付けられる、というのが今回私がこの記事を書く上でひとつ、主軸に据えようと思っていたトピックですので。(厳密に言えば両者の「複数の視点」の意味合いは違いますが、一つの見方に固執しない、という同類項で括り出してみたい、という趣旨です。)

初心者目線からしてもその考え方の斬新さが分かるのです。量子論の考え方に触れる良いきっかけになりえますし、少し見知っている人でも更に学びを深める上で興味深い題材になるというのは、なんとも魅力的だと思います。

また、これからの時代を生きていくうえでどのような視点を持って学問に臨めばいいのか、という問いに答えを与えてくれるようにも感じました。余談ですが、コンピュータには、ここから派生する「ゆらぎ」が使われています。セキュリティでこれを使うとハックの難易度が跳ね上がるというのもどこかで読んだ記憶があります。–閑話休題

 

自然を観ずる視野が要求するもの

「複数の視点から未知の自然現象を解析する」ことの強みは、極端な表現をすれば、「偏見に囚われることが少ない」という点にあるでしょう。

私自身の経験からしても、「なぜそうなるのか?」を考える際に、ひとつの科目に絞った問題として考えるとまったくもって理解できない項目がありました。そういう時には、視野広く複数の視点から観ずることで途端に理解できた、ということが多々ありました。そして初めに理解できなかった点が何であったのかを洗ってみると、大概はその科目ではあまりプッシュされていない概念の話でした。

自然を解析する、などとつい先程偉そうに書きましたが、その解析の手法は人為的に創作された虚構に過ぎません。言い方を変えれば、「神秘的現象を、俗物の理論体系に当てはめる」ということです。「体系」というのは、段階を踏む毎に拡がる知識のネットワーク、というイメージが分かり易いでしょうか。

神秘的現象というものはただそこにあるだけです。それ以上でもそれ以下でもない。そこにストーリーを組み込んで意味付けするのは、自然科学と称される統合型学問の仕事です。そう言われると、どこか一方的な決めつけの感がしてきませんか。ここに、現代社会において要求されている学問体系が浮き彫りになっているのです。

無論今まで積み上げてきた学問体系が無意味なものであり、無に帰すべきだ、などというつもりはありません。むしろその逆で、今までに培ってきたその体系の上に更に拡がる体系を作る、というのが正しい構図であります。先程のネットワークの例えに重ねると、よりヴィジョンが見え易くなるやもしれません。

より拡く包括的な理論体系を構築するうえで要求されるのは、広範な視野です。自然現象はただそこにあるだけですが、それを私たちが読み解くには複数のロジックの重ね合わせが必要になるでしょう。ですから、既存の分野を横断できるだけの視野がなくては、極力薄いフィルター越しの自然を見ることができないのです。

 

最後になりますが、私は「自然現象」という言葉に「神秘的」という修飾をかけました。その意図は、もう皆さんには伝わっていますよね?

 

ではまた、次の記事でお会いしましょう。さようなら!

気になること、思ったことなどありましたら是非コメントしてください!